――まず初監督されることになった経緯について教えてください。
僕は約20年間、俳優として沢山の現場を経験させていただきました。その過程で、役に対して客観性を持ってしか演じられない自分にフラストレーションを感じていくと同時に、いつしか作品を制作する側への思いというものが心のどこかでどんどん強くなっていったんです。ただ、あくまで個人的なものとして、俳優をやりながら監督や制作側の立場に立つことにどうしても違和感を覚えてしまう自分がいました。そこで一旦演じる側であることを止め、自分自身で企画やプロデュースなどを手掛けるSTUDIO NAYURAを2022年からスタートさせました。
その決断にも大きく影響しているのですが、今回の『水平線』に関しては元々2018年頃、神奈川芸術劇場(KAAT)から「オリジナルの舞台をやらないか」とのご依頼をいただいたことがきっかけです。舞台演出に関しても僕は初挑戦だったんですが、まずはそのオファーを受けて、自分が主演した映画『ビルと動物園』(08)などの監督、齋藤孝さんに脚本作りをお願いしたところから始まりました。
そこで「福島を舞台にした、不在を抱えた男の再生の物語」という骨組みが出来上がったんですね。ただ準備中にコロナ禍に入ったことで、企画自体は延期を重ねたり、諸々の事情も相まって、結局は斎藤さんの脚本と僕の演出という形で、サーカス団の裏舞台を描いた『象』という全く別の作品を2022年4月に上演しました。
一方、宙ぶらりんとなった『水平線』の基になった脚本は、自分自身が福島の人達との関わりを持っていく中で、皆さんの生の言葉をそのまま取り入れていたりするので、作品化をどうしても諦められませんでした。そこで、作品のテーマ的にも多くの方に届く可能性のある映画化を目指してブラッシュアップしていきました。
――海に遺灰を撒く海洋葬を請け負う専門業者である「散骨業」という職業を扱った映画はまだ珍しいかと思います。
最初は齋藤さんからの提案がきっかけです。理由はいろいろあるんですが、まずひとつは、家族という共同体の希薄さが進む時代の中、遺族の弔い方も多様化していて、そこに現代の日本社会を表わすテーマを垣間見ることができると思いました。例えば一度も会ったことのない親戚が亡くなった時、散骨を業者に依頼するようなケースが増えていたりだとか。
もうひとつは、やはり2011年3月11日の東日本大震災のあと、余りにも多くのご遺体を弔わなければいけない現実があった。東北でもセレモニー会社が海洋散骨を請け負うようになったりですとか、この10年で散骨業の需要が全国的にも急激に伸びたわけです。個人的に躊躇なく使える言葉ではないですが、「散骨ビジネス」というものが震災後に実際広がっていった。その際には個々の鎮魂思想も揺さぶられる気がしました。遺骨は個人の魂が宿ったものなのか、それとも単なる「モノ」なのか――。
あと、貧富の格差ということも顕在化しやすいんですね。通常の埋葬に比べるとコストが安いので、経済的な事情で散骨を選択する遺族の方も多い。こういった今の時代に混沌と渦巻く多層的な問題を、散骨業を通すことで集約して描けるのではないかと思いました。
――取材は随分されたとか。
はい。例えば映画やドラマなどで、遺骨をそのまま風に吹かれるようにして海に撒くシーンがよく出てくるじゃないですか。僕も同様の既成イメージがあったんですけど、実際は水溶性の紙にパッキングするんです。こういったガイドラインは各協会や自治体によって異なるらしいのですが、例えば陸地から1海里(1852m)以上離れた海洋上で行わなければならないとか、遺骨を1片2mm以下に粉砕する必要があるとか、それぞれで細かいルールが定められていることは取材を通して初めて知りました。
あと、やはり海洋散骨自体に対する賛否の声もあるんですね。映画の序盤で「海汚しが!」というヤジが飛ぶシーンを入れましたけど、例えば海を生業の場とされている漁師の方々の中には不快に思われる方も実際いらっしゃるようです。ただ肯定的なご意見を持つ方々も多く居ますし、当然ですが一括りにはできません。
――主人公・井口真吾を演じるのは、小林さんが『凶悪』(13/監督:白石和彌)で死刑囚となった暴力団の元組長と舎弟役でご共演されたピエール瀧さん。
主演はピエール瀧さん以外に僕は考えられなかったんですね。そもそも以前から、もし自分が映画監督をすることがあったら、最初の作品は主演として瀧さんに立って欲しいと勝手に思っていました。今回の脚本も瀧さんが井口を演じる前提で組み立てていきましたし、もし断られていたらクラインクインしていなかったかも。
ご本人との面識としては、実は『リンダ リンダ リンダ』(05/監督:山下敦弘)の現場ですれ違ったりとか、もう結構長い。僕が役者を始めてすぐの頃から20年ほど崇めている兄貴分的な存在なんです。
なぜ瀧さんにそれほど惚れ込んでいるかと言うと、人間存在としての「地肩の強さ」。ミュージシャンとしてもタレントとしても、何をやっても独特。僕が役者の強さで最も憧れていたのが、こういう唯一無二の存在の強度なんですね。どこか正体不明の浮遊感もあって、瀧さんなら芝居のテクニックとかじゃなくて、どんな役を演じた時にも、その役の本音を見せてくれそうな気がする。
今回の井口にしろ、妻の「不在」を抱えているからと言って、ずっとシリアスな表情をしているわけではない。彼の心の解放区になっているスナックではだらしない男の顔を見せるし、カラオケで「勝手にシンドバッド」を歌うシーンは撮影初日の朝イチに撮りました(笑)。外からは矛盾や隙に見えるような多面性を抱えているのが人間だし、その強度を上げてくれるのは瀧さんしかいないと思ったんです。
――この映画では「こことよそ」の対立だけでなく、内部でも衝突や分断があるということも多声的にしっかり描かれている。それは父と娘の想いのすれ違い……井口の娘である奈生(栗林藍希)の在り方にも関わってきますよね。
説話構造としては父と娘の関係が主軸になっているとも言えます。やはり「不在」をめぐっても認識や想いの違いというか、奈生にとってはまだおぼろげな記憶の中で、小学生の時にお母さんが突然居なくなってしまった。父親としての井口は、彼なりに奈生には自分自身の人生を大切にして欲しいと願っているんだけど、当然ながら娘の複雑な胸の内を想像し切れていない。そこのやるせなさを映し出すことで、ある意味で震災から時が止まっている井口真吾という人物も見えやすくなるかなと思いました。
あと井口同様に、奈生もやはり「不在」を陰鬱に抱えているだけの人物にはしたくなかったんです。奈生の友人・沙帆(円井わん)は公務員の資格を取ろうと国家試験の勉強に励んでいる最中ですけど、彼女は奈生が「もうひとつの人生」の可能性を見るような同年代の存在とでも言うんでしょうか。奈生も沙帆といる時は彼女の快活さに同調するし、楽しい時間を共有することができる。ただ、そこからひとりになった時、どこか不全感や鬱屈を抱えた今の自分が照射されるところがある。
結局、映画の最後まで行ってもこの父娘は何かを浄化できたわけでも、前に進んだわけでもない。ただ「前に進む」ことはできなくても、少しだけ「向きが変わる」だけでも、何かしら希望の在処は見えるんじゃないかと思ったんです。
――群像劇という側面もこの映画にはあると思いますが、役者の皆さんが本当に素晴らしかったです。
役者さんに関しては、とても良い関係でやれたなっていう実感があって。逆に言うと、演出家としての僕は、役者さんに寄り添ったり、演技しやすい環境という点にアプローチすることしかできないんですね。キャストは皆さんとても勘のいい方々ばかりでしたし、理想的なバランスでやれたように思っています。
いわゆる脇の登場人物に関しても、奈生の同僚であるシングルマザーの河手さん(内田慈)なんかまさにそうですが、やはり物語を転がすためだけに存在するような一面的で記号的なキャラクターにはしたくないという想いがありました。実際の人間関係やコミュニケーションだと、他人って距離感が変わると違う顔を見せるじゃないですか。そのグラデーションを繊細に描けたらいいなと。
自分が役者をやっていたせいもあるんですが、何より「良い芝居」を優先しちゃうところがありますね。本筋から離れたところでも演者の良い顔を目にしたりすると、なかなかテイクを切れない。結果的に自然と長回しが多くなってしまいました。現場では短いカットもそれなりに撮ったんですけど、結局編集であまり使わなかったですね。
――映画を撮りあげての手応えとしてはいかがでしょうか?
当然ですが、監督と言っても僕ひとりの力では到底なし得ないレベルの映画が完成したと思います。この10年ほど、自分がもやもやと考えていたことを、素晴らしいチームの総合力で納得のいく形にできたことを誇りに思っていますし、スタッフやキャスト、福島の地元の方々を含め、協力していただいた皆さんに心から感謝しております。
この映画は何か体裁の良い「答え」を出すような映画ではありません。特に最後の井口の決断……殺人犯の遺灰を海に散骨する、というのは、僕自身「本当にこれでいいのか?」と非常に迷ったところなんですね。もちろん意見は分かれると思いますが、しかし物語の中で映画を完結させるのではなく、現実を生きる観客の皆さんに委ね、問題提起として投げ掛ける映画にするべきだと思いました。どういう声に耳を傾け、どう自分が個人の声を発していくのか。何を選択するのか。ぜひ『水平線』をご覧になった皆さんの声を聞かせて欲しいです。