あまりに平凡な人生。冒険の可能性などどこにもない毎日。 しかし一旦運命の歯車が廻り出した時、退屈な日常は”無情の世界”と化し、女も男も絶体絶命の大冒険に巻き込まれていく──。
本作は、俳優・小林且弥が新たな映画の可能性を求めて立ち上げた、STUDIO NAYURAによる第一回製作作品。この記念すべきプロジェクトに、3人の気鋭の映画作家が集結。 『教誨師』『夜を走る』の佐向大はサスペンスフルでロマンチックなフィルム・ノワール。 押井守に才能を見出された『東京無国籍少女』の山岸謙太郎は、ハードボイルドでユーモラスな ヤクザ映画。『POP!』の小村昌士は、オフビートでシニカルな悲喜劇。
舞台も登場人物もテイストも異なる3つの<物語>でありながら、いずれも逆境の中で強烈な”生” が乱反射する。そんな奇跡の瞬間を切り取った、珠玉のショートストーリーズがここに誕生した。
欲しいものがいつだって手に入るとは限らない。
ローリング・ストーンズの一九六九年の名曲「無情の世界」(You Can't Always What You Want)はリフレインでそう歌っている。同曲はドナルド・トランプが演説のシメに流すことでも有名になってしまったが(もちろんミック・ジャガーらストーンズ側は「勝手に使うなよ!」と憤慨)、ともあれ三人の異能監督による三つの挿話からなる映画『無情の世界』に蠢く登場人物たちも、「欲しいもの」を手に入れられないまま、あるいは人生を変える決定的瞬間と無様にすれ違いながら生きていく。
そんな中、佐向大の『真夜中のキッス』で映画の運動性を牽引するタフなヒロイン、ユイ(唐田えりか)は唯一の例外的=特権的存在と言えるかもしれない。劇の冒頭、真夜中の路上を疾走する車(すぐのちに練馬ナンバーだと判る)。ハンドルを握る手には赤い血。そこにせり上がるタイトル“KISS ME AT DEAD OF NIGHT"。佐向の頭にあった参照先は“KISS ME DEADLY”――『キッスで殺せ!』(五五/監督:ロバート・アルドリッチ)辺りか。後部座席に横たわる死体、かと思ったのはユイで、彼女は犯罪逃避行の相手ユウジ(栄信)と、まるで『パルプ・フィクション』(九四/監督:クエンティン・タランティーノ)のハニー・バニーとパンプキンのような構図で深夜のファミレスにて小休止を取る。そこから隣席に座っていた一筋縄ではいかぬ冴えない男・竹山(新名基浩)らが厄介事に巻き込まれていくが、誤解や打算を駆動力とする喜劇的展開はフィルムノワールのパロディのようだ。
するりと囚われの身から潜り抜け、自由に逸脱し続けるユイは彼ら(男たち)の「欲しいもの」であり、「無情の世界」と同期した流動体であり続ける。女性を中心点に置いた構造は佐向の過去作『まだ楽園』(〇六)や『ランニング・オン・エンプティ(一〇)、そして『夜を走る』(二二)をくるっと反転させた趣だが、ヒロインが圧倒的な「他者」であることには変わりない。高性能なストーカーぶりを発揮する竹山のスマホのムービーカメラに映る、痴話喧嘩に沸くファミレスからこそっと逃げるユイ。この必殺ショットのあと、やがて彼女はナンパしてきた男の車の窓から風を、空を、世界を触るように手を伸ばす。
所変わって、「全員、死にさらせ!」との野太い声が響き渡るどこかの屋上。坊主頭のいかつい男の顔から山岸謙太郎の『イミテーション・ヤクザ』が始まる。この主人公は渡部龍平が演じる俳優・渡部龍平。ニアイコール本人役で、彼自身が原案と共同脚本も手掛けている。現在進行形の「売れない俳優あるある」系オートフィクション――自己戯画化の要素が強いということか。渡部(ワタナベじゃなくて「ワタベ」!)が「欲しいもの」はずばり「役」だ。目立つ仕事。なるだけでかいヤツを。だが明日はヤクザ映画『シャブの帝王』のオーディションが控えているのに、マネージャーの高木さん(椎名亜音)から適当かつ鋭くダメ出しされる。「迫力だけって感じかな~。リアリティがないっていうか。なんか〝お芝居〟しちゃってるんだよね。龍平君から出てくる〝本当〟がない」。
さて、オーディション当日の渡部龍平に起こることは、彼の間の悪さ、持ってなさ、そして本物のヤクザたちの誤解が招く運命の歯車の混乱である。いや、狂ったのは些細なスケジュールの予定だけで、大枠で考えると「リアリティをつかんでこい!」という真の好機到来なのかもしれない。たまたま「ヤクザB」で出演していた『任侠ブルース』シリーズのおかげで「役者やっていて良かった!」的な歓喜も不意に味わいつつ、結局は後輩俳優の松本君(田中俊介)と共に修羅場を体験する。果たして四十歳のボンクラ俳優はそれを貴重な糧として受け止め、通過儀礼の機会として活かすことができるのか? 「いい話」の予定調和を絶妙にハズす、抑制された語りの処理が秀逸だ。彼がイミテーションから「成長」したかのかどうかは、おそらく次のオーディションまで判らない。
以上、同じビルのフロア違いで巻き起こった珍騒動に続き、今度は同じ一室の時間違いが作劇の柱として設計される。小村昌士の『あなたと私の二人だけの世界』だ。雑居ビルで開かれている、女性が変態を撃退するための護身術スクール。そのレッスンが終わると、モテない男たちを対象とした恋愛塾に交代する。言うならば矛盾&衝突する二つの世界。相性が悪い。イヤな予感しかしない。最初は護身術を学び始めたおとなしい櫻井さん(白石優愛)と、三年恋愛塾に通ってまだ彼女ができない下田君(大友律)の二焦点かと思いきや、「ある事件」をきっかけに下田君と護身術の主宰者・榎本(菊田倫行)の二焦点となり、やがては(榎本が本当にヤバいことになっちゃうので)下田君の視座に絞られていく。
「欲しいもの」を求めて恋愛塾に淡々と通い続ける下田君はマジメだ。小村はMOOSIC LAB[JOINT]2020-2021グランプリに輝いた小野莉奈(『真夜中のキッス』のアイリだ!)主演の『POP!』(二一)でも、ピュア過ぎて周囲(偽善や欺瞞に満ちた薄汚い世間)とズレてしまう主人公を描いた。ありったけの愛おしさを込めて。下田君は不器用に日々過ごしているのに、バブル風の講師・立花(内田慈)や、楽天の広告モデルみたいな恋愛塾の卒業生・越中(渋江譲二)はヤリたい放題で楽しそうである。この世界は図々しく生きられる奴らのものなのか?
かくして一世一代のアクションを起こし、身も蓋もない男性特有の生理現象のせいで、「性欲のバケモノ」と見做される下田君。その共犯者となる榎本コーチ。本当に悲惨である。これは#MeToo以降、勢いを増す女性のエンパワーメントの反作用として生まれた、最もみじめで滑稽な男たちの悲喜劇かもしれない。
だが絶望するのはまだ早い。胸についた肛門から自我を持ったウンコをひり出すバケモノの話を聞きながら、この映画総体が差し出すものはワケの判らない未来に向けた、ある種開かれた物語=気分なのだと思った。ローリング・ストーンズの「無情の世界」も、先に挙げたリフレインのあとにこう続くのだ。 “But if you try sometimes well you just might find. You get what you need.”(だけど時々試していれば、いつか見つかるかも。君は「必要なもの」を手に入れているんだ。)
映画評論家、ライター。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『21世紀/シネマX』『シネ・アーティスト伝説』『日本発 映画ゼロ世代』(以上フィルムアート社)、『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)。映画パンフレットやメディアに多数寄稿。YouTube番組「活弁シネマ倶楽部」にてMCを担当。
夜の郊外。車の後部座席に載せられた、血にまみれた女の死体――と思しきそれがムクリと動き出す。映画小品集『無情の世界』に収められた短編『真夜中のキッス』の冒頭シーン、佐向大の前作『夜を走る』を観ている者が観れば、直ちにそれが『夜を走る』のアナザーストーリー、すなわち、あり得たもうひとつの「夜」であることがわかるだろう。
起き上がった女――唐田えりか演じるユイは、さながら『夜を走る』で死体となった女――橋本理沙の影でありオルターエゴのようだ。その意味で、今作『真夜中のキッス』は、監督自身による前作に対するひとつのアンサーでありアンチテーゼである。 『夜を走る』では死体となることで、いわば受動的な形で男たちの人生をかき乱していった橋本。それに対して、ユイは能動的に、積極的に男たちを手玉に取り(?)破滅させていく。そこには、冷たくて重い死体とは対極的な「軽さ」と「清々しさ」がある。
鬱屈とした男たちによる自己愛的な「物語」から不断に逸脱していくファム・ファタル。深夜の国道、街灯と信号機のLEDに照らされたアスファルトを独り歩く女。駆動するモーターと重々しい鉄の鎧はもはや存在しない。車を捨てたロードムービー? そこには、トウシューズを捨てたイサドラ・ダンカンのようなフィジカルな身軽さだけが静かに存在している。なんという静謐なカタルシス。
もっとも、しばらくすると彼女はまた別の車に颯爽と乗り込んでいくのだが――。
ところで、今回頂いた原稿依頼は『真夜中のキッス』へのレビューとコメントなのだけれど、残り二つの短編作品――『イミテーション・ヤクザ』(山岸謙太郎監督)と『あなたと私の二人だけの世界』(小村昌士監督)も素晴らしかったので、そちらについても少し書いておきたい。
『イミテーション・ヤクザ』は、ヤクザ映画のオーディションを受けに来た(売れない)役者が主人公。うだつの上がらない生を営む人間たちが、ふとした「ズレ」がきっかけで非日常へと迷い込んでしまうという構図は他二作と共通しているが、本作では渡部龍平を演じる渡部龍平(!)が味のある演技をみせている。現実と虚構と妄想が入り混じった世界にあって、演じることを通して「演じる」ことの凄みと狂気を体現してみせる渡部の圧倒的な迫力と「リアリティ」。正直に言えば、こういうメタフィクションは大好きだ。
『あなたと私の二人だけの世界』もまた一癖も二癖もある作品だ。様々な物語やファクターが如何わしく交叉していく群像劇を丁寧に紐解いてゆくだけの紙幅はもとよりない。しかし、間違いなく本作における影の主人公といえるのは榎本(菊田倫行)である。榎本は女性向けの護身術スクールを主宰するかたわら、警察官時代にくすねた拳銃を山奥で発砲することを通して抑圧された男性性をひっそりと「昇華」させている。社会から逸脱しきれない平凡な人間でしかない榎本は、聖域のような空間に隠れて小市民的(?)で「無害」な逸脱をひとり愉しむ。そんな榎本の姿は、三作に共通して登場する、出口のない殺伐とした郊外や都市――「無情の世界」で燻り続けながらも、そこからの逸脱を煩悶しながら夢想する人間たちの姿とどこか重なり合う。 本作は終盤、榎本が自身の聖域にもうひとりの男を迎え入れることで、「男たち」の物語へとスライドしていく。他者を傷つけることに対して深く傷つき倦み疲れてしまった男たちのみじめな悲哀を、皮肉とブラックなユーモアを交えたタッチで描き出してみせながらも、だがその眼差しは同時にどこか暖かくて優しい(テーマは異なれど、本作を観終わった後の奇妙な清涼感とデトックス感は、ケリー・ライカートの『オールド・ジョイ』を観終わった後のそれと似ている)。
三つの作品に共通するのは、「それでも夜明けは訪れる」という身も蓋もないリアルだ。だが、そのリアルのなかにこそ希望がある。榎本の無限に増殖していく夢の語り(フロイトも喫驚するであろうリビドーまみれの夢!)に耳を傾けながら弛緩したまどろみに落ちていく一方、ユイは車の窓から夜明けの風に手を伸ばす。たしかに明日は変わらずやって来る。だが、その明日が昨日と同じ明日であるとは限らない。 ライフ・ゴーズ・オン。オーケー、余裕。
文筆家。著書に『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』(イースト・プレス)、『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社新書)、『失われた未来を求めて』(大和書房)。共著に『闇の自己啓発』(早川書房)、『異常論文』(ハヤカワ文庫)がある。
壁はレインボーカラーに塗られている。しかし、その壁が一面をなすレンタルスペースでは多様性どころか、男性と女性が睨み合いを続けている。 「榎本護身術スクール」として使われる時間には、女性たちが不審者から身を守る術を学び、すぐ後に開かれる「恋愛術レッスン立花塾」では、男性たちが女性の恋愛対象になるための立ち居振る舞いを身につけようと励む。榎本スクールで想定される不審者つまり加害者は「おかしな目で見」てくる男性であり、立花塾では女性を「ターゲット」と呼ぶ。男性と女性の間には黒々とした線がひかれ、敵対や攻撃や征服が虹色の前で何度も演じられる。襲撃のテイも誘惑のテイも、被害も加害も、片側だけでは成立し得ない。相手が必要だ。
護身術スクールを営んでいた榎本はのちに、「不審者にメシを食わせてもらってるような気分になってさ」という自嘲で、閉鎖に追い込まれた現実を飲みくだそうとする。 だが八〇年代後期の亡霊のごとき立花塾の講師は、征服欲や自尊心を満たしたい男性からおかしな目で見られ狙われる女性に、メシを食わせてもらってるつもりなどない。勝者としてそこに立っているのだから、当然だ。恋愛資本主義が猛威を振るったあの時代と連結している彼女は、女の若さに価値がつく市場に今も身を置き身を削っている。市場価格の下落に抗い勝者であり続けるために、形骸化したゲームのルールを死守する必要がある。
本作とともに短編小品集の一角を成す佐向大監督の『真夜中のキッス』にも、女性たちが年齢という棍棒で殴り合う場面があった。この映画でファム・ファタルの立ち位置に置かれたユイは、レインボーカラーからいくつか欠けた四色のセーターを着ている。幾多の映画で、男性の愛慾の対象であるがゆえに悪と死を託されてきたファム・ファタルは、黒を纏うはずなのだが。
なぜ多くの映画において、愛慾の対象に悪が託されるのか。それは少なからぬ男性に、性欲の被害者という自己認識があるからではないか。要するに、そんなつもりないのに勃っちゃたりするから。俺だけど俺じゃない、いやらしいことを考えてしまったのは。身体の真ん中から外に飛び出ている、あいつがやったこと。でも、かわいいあいつは無垢なんだ、無垢なあいつをそうさせたほうが悪い。
立花塾の熱心な塾生でありながらゲームのルールを疑う下田君は、榎本護身術スクールを受講する櫻井さんにときめく。しかし、被害と加害の構図に飲み込まれてしまう。「性欲のバケモノ」が具現化され、櫻井さんにとって世界はより強固なものとなった。
放逐された下田君と講師の榎本。二人だけの世界はおだやかだ。菊田倫行演じる榎本は、『天才バカボン』のホンカンみたいな四白眼の広大な白目を剥くこともなく、下田君を優しく大切な場所へ誘う。『真夜中のキッス』のユイは、「叙々苑行かない?」で軽々と遠くへ行けたけれど、男たちは山深い道を黙々と歩いてもなかなか外側へは出られない。
そして彼らは、『タクシードライバー』(七六/監督:マーティン・スコセッシ)をはじめこれまた多くの映画で男根の象徴と解読されてきた銃を放つ。さらには榎本の夢の中で、『エイリアン』(七九/監督:リドリー・スコット)の異星人さながらに身体の真ん中からうんこが飛び出す事態となる。うんこには自我があるという。うんこという他者。それが男根を象徴しているかどうかも、いせいといせいじんは二字違いで、うんことちんこが一字違いなこともたぶんどうでもいい。ただそこには、線が引かれていない。線を引くのはいつだって、あなたや私自身なのだ。
放送作家、コラムニスト。担当番組に「有吉ゼミ」、「マツコの知らない世界」、「MUSIC STATION」など。著書に、『怪しいテレビ欄』(信濃毎日新聞社)、『隣家全焼』『堤防決壊』(ともにナンシー関との共著、文春文庫)などがある。